以前働いていた会社のツアーに両親が参加してきました。添乗をしたことのあるツアーとほぼ同日程なので今回は2人が旅したチェコ、スロバキア、ハンガリーの旅行記を代筆します。【旅行時期:10月初旬】
朝のプラハを訪れた者は、誰もが時代を錯覚する。
何故ならそこには、千年変わらぬ姿を留める王の都が広がっているからだ。
明日は帰国となるため、実質的な観光はこの美しいプラハの街がフィナーレとなる。
「北のローマ」、「百塔の街」、「黄金のプラハ」、「建築博物館」・・・プラハには様々な呼び名がある。
それだけこの街には様々な魅力があり、訪れる人によって百人百様の感じ方があるからだ。
プラハで最も有名にして最古の橋、カレル橋。そこから眺める麗しいモルダウ川の流れは、何時の時代も変わらない。
そして対岸に威容を誇る聖ヴィート教会とプラハ城は、歴代の王がそうしてきたように、今でも高台から街を見守っている。
まず向かうのは、ヨーロッパでも最大級の城、歴代王の居城だったプラハ城だ。
城の敷地に入りまず圧倒されるのが、聖ヴィート教会の天に聳える姿。
以前建築様式の特徴について紹介したことを憶えているだろうか。
何気なく見ていると、どれも同じように見える教会。しかし、それぞれの様式の簡単な特徴を一度理解するだけで、驚くほど見分けがつくようになる。
聖ヴィート教会は、ゴシック様式の教会として最も分かりやすい例の一つだ。
ゴシックの特徴を一言でいうと、「とにかく髙さにこだわっている」という点。ゴシック全盛期の建物は、物理的にも視覚的にも、何とかして高さを出そうと至る所に工夫が見られる。
尖塔はそのひとつであり、天を突き刺すかのような尖った塔がいくつも伸び、壁は薄く窓が多く背が高い。それを支えるために外観の側面には、これまた細長いバットレスという支え柱が無数に付けられている。
まずは、外観だけでも十分高さを感じることができる。
そして、内部に入り更に圧倒されることとなる。
天井は極限まで高く作られ、更に視覚的に高さを出すため床から天井まで無数の添え柱が伸びている。こうして一本の柱で床と天井を結ぶことで、視線を縦方向にもってくることができるのだ。
添え柱は天井で交わり、リブヴォールトと呼ばれるゴシック独特の骨組が出来上がった。
高さを生み出す仕掛けはまだある。
ステンドグラスである。ゴシックの教会へいくと、とにかく縦長で大判のステンドグラスが多用されていることに気付くだろう。
これにより、光を取り入れることで教会内部を明るく軽快に見せ、縦長の窓で高さを演出する効果があるのだ。
聖ヴィート教会のステンドグラスは、チェコ出身のアールヌーボー画家、アルフォンス・ミュシャが手掛けたことでも有名だ。
教会内では、宮司だったヤン・ネポムツキーの墓碑が一際存在感を放っている。
聖ヴィート教会を出ると、もうひとつ、聖イジ―教会が立っている。
再度建築様式に注目してみて欲しい。ヴィート教会と比べると、明らかに様式が違うのが分かるだろう。
こちらはロマネスク様式。ロマネスクの特徴は、「素朴さ」である。
石造建築が始まったばかりの頃に生まれたため、石造りのどっしりした分厚い壁、低めの天井、半円アーチ、小さくて少ない窓が見てとれれば、ほぼ間違いなくロマネスクだと考えて良い。
ステンドグラスもほとんど用いられず、内部は仄暗く、ゴシックとは全くと言っていいほど違っているのが分かる。
続いて旧王宮へと入っていく。すぐに、ヴラディスラフホールという大ホールへ通じている。ここでは、馬術競技や、戴冠式などが行われていた。
建築様式を見てみよう。ゴシックの特徴である添え柱と、天井で骨組が交差するリブヴォ―ルト。そして、ロマネスクの特徴である厚い造りの壁と半円アーチ。ステンドグラスは無い。
ゴシックとロマネスクが混合されていることが分かる。
厳かな礼拝堂も併設されている。
旧王宮から出ると、小道が続き小さくて魅力的な店が並んでいる。
ここは「黄金の小路」と呼ばれ、かつては城に仕える侍者たちが住んでいたという。
また、当時密かに流行っていた錬金術に携わる職人たちの工房が並んでいたとも言われている。
神経衰弱を患い「奇想の王」と呼ばれたルドルフ2世は、怪しげな占星術や錬金術に傾倒していた。錬金術は卑金属から金を造り出すことからして、魔術と並ぶ得体の知れないものだとされていた。
ルドルフ2世は、プラハ城から秘密の通路を使って通える隠れ家に閉じこもり、夜な夜な錬金術に明け暮れていたという。
プラハを神聖ローマ帝国の首都と定め、カレル橋を築きプラハを最も繁栄させたカレル4世はチェコでは最も人気のある王である。
しかし、この街を「黄金のプラハ」と言わしめたのは奇人とされたルドルフ2世の時代だった。
政治に興味が無く風変わりな王として知られる彼だが、奇人才人を仕えさせ、天文学や錬金術、暗号法や医学など宇宙科学、自然科学といった神秘性のある分野に対して並々ならぬ探究心をもっていた。そして実際に、この時代のヨーロッパに重要な影響を及ぼしたのである。
英雄カレル4世も素敵だが、私はこの不思議なベールに包まれたルドルフ2世の方が、なんだかプラハのイメージにしっくりくる気がする。
現在ルドルフ2世の隠れ家は、魅力的な五つ星ホテルとしてその秘密めいた姿をひっそりと留めている。
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黄金の小路に並ぶ小さな家々の中には、1916年から半年ほどフランツ・カフカが仕事場としていたものがある。
22番の家だ。彼は旧市街にある自宅から、時には母の手作り弁当を持ってここへ通ってきたのだという。
黄金の小路の終わりにはオープンカフェがある。添乗の仕事の時にはいつも、黄金の小路で自由時間をとっている間にここへ先回りして珈琲を飲んでいたのを思い出す。
プラハ城見学の後は、丘を下って降りてゆく。眼下には中世から変わらない赤茶屋根の街並みが続く。
プラハは二度の大戦の戦火からも逃れ、資本主義経済の高度成長にも巻き込まれることはなかった。
したがって、千年の歴史を持つ街並みは、奇跡的にそっくりそのまま現代に受け継がれてきたのである。
広場まで戻ってくる。旧市街のシンボル、旧市庁舎の時計塔。
時計塔の上に登れば、旧市街の全貌をつかむことができる。
広場には魅力的なオープンカフェやレストランがひしめいていて、どこへ入ろうか目移りしてしまう。
旧市街広場からプラハ城までの道のりは「王の道」と呼ばれ、かつては戴冠式のパレードが華々しく行われた。
広場からすぐの所に、フランツ・カフカの生家がある。
カフカは41年の短い生涯のうち39年をここプラハの旧市街で過ごした。
無名のうちに世を去った小説家は、プラハの街を散歩するのが日課だったという。
プラハの街は時間により光と影の具合で全く違った表情を見せる。そんなミステリアスなプラハの街を隈なく歩き回り、カフカは小説の構想を練っていた。
プラハの街を歩く時は、長身で手足がひょろ長いカフカの幻影を見た気になる。
死の床に就く時、カフカは自身の書き溜めた小説について「悪夢を綴ったものに過ぎないから、焼き捨てるように」と友人に指示していた。
しかし彼の死後、友人はカフカ全集を出版した。こうして彼の作品はようやく日の目をみることになった。
生前、彼の意志で本になったものは「変身」を含める全6冊。いずれも短編である。
出版社に依頼されたでもなく、受けていた仕事があったわけでもなく、果たして「悪夢を綴っただけ」のものを数千ページに渡って書き続けることができるだろうか。
プラハの春、ビロード革命、激動の時代を生き抜いてきたプラハの街のように、鬱積した社会への思い、病への苛立たしさを抱えながらもカフカは小説をノートに書き続けた。それはある意味彼の執念だったのかもしれない。
街のあちこちにあるパッサージュ。
午後の自由時間には、ツアーで親しくなった仲間と地下鉄にも乗ってみた。
日が暮れる頃、モルダウ川を行く遊覧船に乗ってみる。
チェコ出身の音楽家スメタナは、「モルダウ」の中でこの悠々たる大河の流れを表現している。
ボヘミアの森の奥深くで始まり、プラハに流れる雄大なモルダウ。その曲調を思い出しながら流れを見つめていると、心が震えてくる。
プラハの夕景は別格である。とりわけ、カレル橋に並ぶ聖人像、高台にあるプラハ城のシルエットは見る者に感動を与えるばかりでなく、千年続く王国のプライドを見せつけられている気にさえなる。
辺りを闇が包んでからも、プラハの街は魅力を放ち続ける。
柔らかなガス灯の光に包まれる夢のようなプラハの夜。